濱野成秋文学のミーリア

 濱野成秋は混沌の中、複雑な家庭環境に生まれた作家ゆえ、その生い立ちを知らねば作品の半分も理解できまい。

 さいきん上梓予定のミステリーも、謎解きなどゲーム感覚で書くのではなく、そこに家族関係、時代への挑戦があり、現代というより500年先の日本を睨んで執筆する時代精神の証言者たらんとする。 

生誕から幼児期

 成秋の父定雄は軍需工場および戦艦武蔵主砲資材調達にて財を成し、頭山満、岸信介、森繁久弥らと交流あり。父は右、母は左の思想であったため、両親の不仲のため多感な幼少時は傷心の連続であった。母秋野は奈良県久米の出身。高取藩旧家に生まれ旧家の石川医院に勤務ののち濱野家に嫁いだ。戦時中にらいてうの影響を受け左傾し、戦後は社会党として政治運動。 成秋はつとめていずれの政治思想にも傾斜せず。


 成秋の生家は白壁土蔵の家。折檻され、この土蔵に閉じ込められた。洋館もあり戦後はこの洋館の応接間で毎夜のごとく進駐軍将校を招いてダンスパーティが催される。幼い成秋はそのとき蓄音機係をつとめたとエッセイに記述あり。6歳年上に兄一(はじめ)。 

 一氏は勤勉実直だが継母と合わず「丈六の家は暗雲垂れ込めていた」との談。成秋は心労絶えず神経の細かいひ弱な子として育つ。


 後年、慶応義塾の『三田文学』に属し、安岡章太郎氏から梶井基次郎と比較され励まされる。作品には細やかな描写が散見される。河内音頭の里だが堺市内空襲体験。複雑な家族関係と戦争は成秋の終生のテーマとなる。地元の登美丘東小学校を6年間優等で卒業。映画好きでmovie-goerであったため、担任から再三注意を受けたが、これが作風に影響、後年ニューヨークで作家のチーヴァー氏も同じ体験をしたと判り、交友を深める。文学に知育、徳育、体育は向かないが教育界はそれを大前提としているがゆえに、そのジレンマで大学教員を勤む点では、荷風、藤村、晶子らに通ずる。


==== 作品背景エピソード ====
 大阪市内空爆の夜、父の妾とその子の存在発覚。敗戦直後、祇園の置屋の娘に成秋と同年齢の娘雪子があることが判明。戦後南方より復員元社員多数同居。自宅の風呂場は兵舎のごとし。浮浪児には握り飯を、学校の先生にはリンゴを与えよとの母の教え。父定雄が毎夜進駐軍将校を招いてダンスパーティをしたのは、GHQの家屋接収を免れる為であったことが後に判明。戦後、母は小唄を習わされる。父の芸者遊びの代わりか。成秋、映画に耽り、チャンバラ時代劇、文芸もの、性典映画、母もの、ギャングもの、股旅物、アメリカ映画何百と観て不良化。かけっこ遅く、鉄棒できず、体育コンプレックス。負けず嫌いで運動会出ず。以上郷土在住者の談にあり隠しきれず。

少年期

登美丘中学校から上宮高等学校へ。中学時代、日本史・日本文学に耽溺し、夏目漱石の全作品読破。三四郎の池訪問。万葉集で斑鳩、百人一首で京都、西鶴近松で大阪の色街を歩く。中学卒業時、学年代表。上宮高校時代、小説執筆開始。

青年期

慶応義塾大学文学部に入学。文学研究会所属。詩人の山口佳巳、吉益剛造、美術評論の岡田隆彦、会田千恵子、小説(文鳥堂社長)吉田武史らが同人。フランス文学、ドイツ文学、哲学、倫理学に傾倒、西脇順三郎、白井浩司、大橋吉之助、池田弥三郎、奥野信太郎の影響を受ける。

作家・文学者活動

 桐朋高校英語科教諭。新日本文学会にて、野間宏、佐田稲子、中野重治、針生一郎、小澤信男、黒井千次、田所泉らと活動。

 

 自分の知識量に満足せず辞任し渡米。ニューヨーク州立大講師としてアメリカ文学を英語で講義する。帰国後、文章力の指導を大久保房男、武田勝彦、井村君江より受ける。この時期に前述のアメリカ作家(Kurt Vonnegut, Donald Barthelme, John Cheever, Bernard Malamud)と交流、『海』、『文学界』、『知識』等に発表。

 

 社会活動では、カンボジア内戦当時、NGOとして難民救済に向かう。阪神淡路大地震では、兵庫県庁、読売新聞、日本赤十字社と協力、野中自治大臣と大臣室で面会、救済金総額6800億円を提示し、ほぼこの額で認めらる。


 アカデミックな業績としては、日本女子大『英米文学研究』によると、東北大学助教授から文部省時代にアメリカ文学で大学院博士課程後期○合教授資格取得。明星大学教授。博士論文審査資格。日本マラマッド協会会長。受賞歴あり。一ツ橋大学・早稲田大学講師、日本女子大学英文学科および大学院教授を経て、現在、京都外国語大学客員教授。上宮高校顧問。